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読書を楽しむ「高橋直樹 軍師 黒田官兵衛」

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秀吉の死後、如水(官兵衛)は関が原に行かず
政争に巻き込まれることを避け、九州にいた

37歳の黒田官兵衛は片足が不自由で毛利攻めの最中に
本能寺の変の知らせを聞き「時、至れり」と言い、中国大返しを
して山崎の合戦で明智光秀を破る。

12年遡り、場所は姫路。
そこには3年前に家督を譲られた25歳の若者がいた。
稼業は目薬屋だったが一家の主になり、また姫路城代として
金繰りに四苦八苦していた。

信長が鉄砲を作る玉鋼の注文を牢人衆の頭が受けて、これの
運搬を官兵衛が依頼され、姉川の合戦で木下藤吉郎に出会い、
岐阜で藤吉郎の口ぞえで織田信長に出会う。

山崎の合戦で明智光秀を破った秀吉は信長の後継者となり
天下が統一されたかに見えたが、豊臣秀頼が生まれた頃から
秀吉は狂い始めた。
如水(官兵衛)が朝鮮出兵から戻ったとき、秀吉は自らの失敗を
話題にしようとせず、秀吉は生気を失い老いさらばえていた。
このとき側近として18歳のときから近習頭として仕えていた石田
三成が羽柴家を取り仕切っていた。
慶長3年秀吉はこの世を去った。

ここまでは、NHK大河ドラマで観た。

黒田如水は次の天下を生きてその眼で見ることになった。
秀吉の死から2年後に関が原の合戦が起こった。

秀吉が死んだとき如水は九州の居城(中津城)にいた。
それは、秀吉の死で政争に巻き込まれないためであった。
但し、黒田長政を徳川家康のもとへ馳せ参じさせた。
このため中津城に残った兵士は3000余りだった。

石田三成は如水へ刺客を放った。
刺客は三成からの金を目当てに如水の隣国豊後を300年治めて
来た大友吉統軍だった。
大友軍は如水の兵力を3000程度を思い込んでいたが如水は密かに
諸国の失業軍人を集めて、その数は9000人になっていた。

大友軍との戦に勝った戦場へ関が原の合戦の報告が届いた。

関が原の功績で長政は52万石の大名となった。
しかし、長政は如水が失業軍人を雇ったことで家康に黒田家に謀反
の噂があると言われるのを恐れ訪ねると「もう、ひとりもおらん」と
如水は言い、隠居して庵のような粗末な家に住み、わずか10人の
ひとが世話をしていた。

これでお終いかと思ったら如水は軍師と言われただけあってただ者
ではなかった。
結末は、本を読んで確認ください。

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