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読書を楽しむ「柳 広司 風神雷神 風の章」

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俵屋宗達筆の風神雷神図屏風が

どのようにつくられたのかを知るために読んだ1-1-35.jpg

知らないと言うことは損なことだ。・・・・・・

西陣に見世をかまえる老舗の唐織屋「俵屋」がある。その本家から扇屋「俵屋」の主人・仁三郎が末息子の伊年を養子に迎えて店を継がせると宣言したのは豊臣秀吉が醍醐の花見を開催した13年前頃だった。歳は六つか七つだった。言葉を話し始めるのが遅く、周囲から少し足りないのではと言われていたもてあまし者だった。放っておかれることが多かった伊年は職人たちが働く作業場の隅で絵を描いていた。俵屋伊年。のちに俵屋宗達と名乗る天才絵師のこども時代はこんなだった。伊年は扇の絵付けをして過ごしていたときに伊年の絵付けを気に入った客の出雲の阿国に呼ばれ一夜をともにした。伊年には同じ町内でこどもの頃からの幼馴染がいた。ひとりは紙屋の次男坊で紙屋宗二、ひとりは豪商の嫡男角倉与一だった。やがて時代は家康が天下人となった。伊年は俵屋の奥の作業場で、職人たちに交じって日がな一日扇に絵を描いていた。俵屋の扇は評判が高く遠方から足を運ぶ者もいた。特に伊年が手掛けた扇を買っていった紙屋宗二が安芸国の領主福島正則公より平家納経の修理を依頼された。狩野派や土佐派の絵師が断ったため宗二は伊年に依頼し修理をした。角倉与一から伊年は本阿弥光悦が一緒に仕事をしたいと言う依頼を受けた。光悦は刀剣の技能を家業としていた。京都では万能の文化人と呼ばれていた。仕事の依頼を受けた事の起こりは与一が嵯峨野に印刷場をつくり、印刷・出版事業をはじめたことで書の名人でもある光悦から料紙と下絵と文字の三者の美が渾然一体となった書物をつくりたいということからだった。そして、「嵯峨本」という贅をつくした美しい書籍が誕生した。本は京の富裕な町衆のあいだで爆発的な人気を博した。光悦は家康から江戸に移り住めの命令を断り、移住願いを出し京の北西に位置するいなか鷹峯へ一族を引き連れて移った。伊年も誘われたが断って風の章が終わった。学歴を重視する親がいて子に強いるが、ひとの未来はどうなるかなんとも学歴だけでは判断できない。この世に生を受けた子は何かに長けていると思うがそれがなにかは簡単に分からない。気を長くして待つのが結果オーライの場合もある。雷の章へ続く。

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