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読書を楽しむ「柳 広司 風神雷神 雷の章」

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屏風は本来「風屏ぎ」や「雷避け」に使われてきた

その屏風面に「風神」や「雷神」を描くことは

暴挙であり、革命であった

「俵屋」は京で一番の扇屋になった。伊年は俵屋の主人・仁三郎に店を継ぐことを宣言し、仁三郎が茶会で用いてきた「号」宗達を贈られ伊年改め宗達となった。また、堺の商家の娘みつと40すぎての遅い結婚をして、ふたりの女の子をもうけた。扇を屏風に貼って、いくつもの扇絵を楽しみたいと言う客も増え、屏風にじかに扇絵を描くこともはじめた。祇園会の日に宗達は雷鳴が鳴り響く中で烏丸光広と出会った。烏丸家は13名家のひとつで殿上人と呼ばれるお公家さんだった。烏丸光広は、宮中の和歌の第一人者だった。光広は某寺の内装画を仕上げて欲しいと頼みに来た。某寺は養源院で淀殿の願いで秀吉が建てた浅井家の菩提寺だった。一度消失し徳川政権下で再建されたが徳川のために死んだ武将たち無念を鎮めるために天井に血染めの板を使うことが条件だった。このような因縁話があり狩野派の絵師が関りを避けたため宗達に依頼が来た。戸板4枚に想像上の生き物・唐獅子と白象図を描いた。このことが縁になり烏丸光広は宗達を連れて公家の屋敷を訪問して回った。門外不出の絵画を数多く模写する機会を得た。臨済宗相国寺の六曲一双の屏風絵の仕事を受けた。伊勢物語を画題にした絵と決まり、第九段「東下り」の一場面を描いた。このことで俵屋には公家屋敷や社寺から注文が舞い込むようになった。烏丸光広が後水尾天皇に働きかけ宗達は「法橋」の位を得た。「法橋」宗達の最初の仕事は「西行法師行状絵詞」の複本作成だった。烏丸光広に案内された醍醐寺三宝院表書院では女人の姿のない源氏の屏風絵を依頼され源氏物語「関屋」の巻の一場面より「関屋澪標図屏風」を完成させた。同じ絵が別のものに見える騙し絵の仕掛けがあった。宗達は50代後半に水墨画にも興味を示した。この頃、友人の出版事業を起こした角倉与一が亡くなり、本阿弥光悦も亡くなった。醍醐寺では「桜会」というイベントで毎年「舞楽図屏風」を境内に並べてきたが 招待客から違う屏風絵が観たいと注文が出て、見飽きることのない屏風絵を宗達が依頼された。さまざまな舞楽図の模写を試み、構図が決まった時に烏丸光広が急死した。宗達がいまの場所に立っていられるのは本阿弥光悦と烏丸光広のふたりに出会ったおかげだった。夜中に風の中に音楽が聞こえ、不意に辺りが暗くなって大粒の雨が落ち、雷鳴が響き稲光が起きた。宗達は店の軒先に立ち尽くし、頭の中にはこどもの頃から描き続けた模写絵図が浮かんだ。黒雲の間から雷神が姿を現したとき宗達は気味の悪い笑みを浮かべ、その日から作業場に引き籠った。宗達という絵師はいかにして生まれ、没したか歴史に興味を持てば人生は苦あり楽ありの繰り返しであることが学べる。


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