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読書を楽しむ「伊東 潤 家康謀殺」

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伊賀出身の吉蔵は

内通者を見つけ出すために

興丁になりすましている草だった

興丁とは身分の高い人の輿を担ぐ者たちのことで、草とは忍のことで傍聴活動を担っている者をさす。家康の警固隊長・永井直勝から呼び出された吉蔵は、家康の周囲にいる者の中に内通者がいると言われる。家康の最も身近にいるのが興丁で興丁たちの様子をうかがい、疑わしい者がいたら報告しろと命を受ける。吉蔵と一緒に家康の輿を担いでいる興丁は、頭の角右衛門、法善坊、与一だった。4人は厳しい審査の末、家康の興丁となった者たちで、体力と忠誠心は、武士たちに劣らないものがあった。興丁の補助要員として舞師の天十郎がいた。家康が駿府を出発して藤枝に宿を取った夜、吉蔵は法善坊に探りを入れた。法善坊はこどもの頃に大阪にいたことがあった。大井川では増水したなかを渡り吉蔵が体勢を崩したが対岸へ着くことができた。天十郎の家は小田原にあり、舞を披露することを家業としていたが北条氏が戦に負けたため不運続きの人生を送ってきた。徳川家は敵だが戦がなくなる世の中を願っていた。与一は本を正せば農民だったが三男坊だったため家を出て興丁になった。吉蔵は伊賀の出で服部半蔵の口利きで興丁に加えられた。与一に草ではないのかと問われ、草の鍛錬は受けていないただの農夫だと答えた。御油の松並木を通過したときに家康が用を足したいと松並木の中に入っていった。周囲を警固隊の手の者が固めたが急に与一が家康めがけて走り出した。銃声音がして大坂方が雇った漁師が家康目がけて撃ち与一が身体で防いだ。与一は刺客ではなかった。吉蔵は刺客の可能性があるのは角右衛門か天十郎と睨んだ。永井直勝へ報告した。熱田神宮では奉納舞が行われることになり天十郎が舞うことになった。何事も起こらず天十郎は刺客でなかった。残りはひとり。吉蔵は角右衛門の様子をうかがった。天下統一の目前、家康に刺客が放たれた。刺客は家康の輿を担ぐ者の中にいる。その刺客とは、知ってびっくり玉手箱。いつの世でも身内を殺されたら自らの手で復讐をする者はいる。戦とはそういうものだと理解するしかない。


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