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ケーブルTVで映画を楽しむ「海 難1890」

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1890年日本で起きたトルコ軍艦の事故

そこから、95年後イラン・イラク戦争の渦中に起きた

テヘラン邦人救出劇

助けを求める者に手を差し延べる

日本人とトルコ人の勇気と誠意の物語

1890年の和歌山県紀伊大島鰹野。この地に暮らす医師・田村と助手のハルは、貧しい者を親身になって診察することから村民の信頼を集めていた。同年9月、日本への親善使節団としての使命を終え、帰路についたトルコのエルトゥールル号は台風に遭遇した。暴風雨の中、船は鰹野崎沖で沈没。島中に響き渡る船の爆発音を聞いた村民たちは、岸壁で漂着した膨大な数の死体と船の残骸を発見する。村民は総出で救出活動を行い、田村とハルは救護所でけが人の手当てに追われる。救護所に運び込まれた海軍機関大尉のムスタファは呼吸が止まっていたが、ハルの懸命な心臓マッサージで息を吹き返した。翌日、生き残った乗組員は69名と判明。実に500名以上が犠牲になった大惨事だった。自分が生き残ったことに罪悪感を覚えて苦悩するムスタファは、やり場のない怒りを田村にぶつけた。田村は漂流物を綺麗に磨いて、母国の遺族に返そうとする村人たちの姿をムスタファに見せるムスタファの胸には、人を想う日本人の深い真心が刻まれた。

それから月日は流れ、1985年のイラン・テヘラン。空爆が続く地下避難壕でトルコ大使館の職員ムラトと日本人学校の教師・春海は出会った。やがてサダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言。日本大使・野村は救援機を要請するが、日本では迅速な対応が難しい状況にあった。その間にも他の国々では救援機が到着し、徐々に日本国民だけが取り残されていく。春海は子供たちを救うために奔走し、野村にトルコに救援機を頼むように進言。野村の要請を受けたトルコのオザル首相は、救援機を飛ばすことを承諾する。ところがテヘラン国際空港には日本人の他に、救援機を待つトルコ人たちで溢れていた。その状況を見た日本人たちは、飛行機に乗ることを諦めかける。そのときムラトはトルコ人に対して、かつて日本人から自分たちが受けた真心の歴史を語り始めた・・・。(チラシより抜粋)

日韓関係がこじれているが日本はトルコとなかよしでいい映画を観たと思った。やはり真心に訴えないとひとは動かない。日本・トルコ友好125周年を記念して両国合作で製作されたヒューマンドラマ。チャンネルNECO


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