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読書を楽しむ「小林エリカ 最後の挨拶」

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ホームズの翻訳者だった父が倒れ

四姉妹の末っ子は家族の歴史をたどりなおす

百年前のロンドンから戦争と震災をへて現在まで

家族のファミリー・ストーリーとホームズの物語

父は1929年雪の降った3月に青森県の一軒家で生まれた。父の家は代々医者の家だった。同じ頃、イギリスのサセックス州ではシャーロック・ホームズ物語を書き終えた70歳のコナン・ドイルが心臓発作を起こし、翌年亡くなった。父は1936年の7歳の時に満州のハルピンに移り住んだ。父の祖父は実家が愛知県にあったが勤務地を医者として転々としていた。弘前の陸軍病院に勤務し、ハルピンに軍医として赴任した。父は満州で病気になり祖母と1938年に日本の祖父の実家の近くへ引き揚げた。祖父が日本に戻り金沢の陸軍病院勤務になり一家は金沢へ移り住んだ。そこで学徒動員で飛行機のエンジン部品を造った。本土空襲がはじまったときに旧制第四高等学校に合格して英語とドイツ語が必修の外国語だった。1945年の夏、日本は敗戦した。16歳の父は本を購入し、英文タイプライターを手に入れ、占領軍のためにタイプする仕事についた。四高のときにエスペラント語を学び始めた。1959年30歳の時に結婚した。父は妻を連れて客船でアメリカへ向かい、ピッツバーグ大学の研究所に勤務した。そこで長女モモが生まれた。3年半のアメリカ滞在を終え父は帰国した。一家は東京の練馬にアパートを借り、父は新宿の病院に勤務したが家を留守にすることが多かった。アジサイが生まれ、次にユズが生まれた。そして、ある日妻が荷物と一緒に消え、ふたりは離婚した。父は8年後、銀行員の女と再婚した。きっかけは彼女がエスペラン語の本を持っていたからだった。そして四女のリブロが生まれる。父はリブロが生まれてから30年の時が経ったときに家で嘔吐を繰り返し洗面器を抱えたまま二階の部屋で意識を失い救急車で大学病院へ運ばれた。そして、4姉妹も若草姉妹から枯草姉妹になっていった。

人生というのは、人間の頭で考えつく、いかなるものよりも、はるかにふしぎなもの。ステイホームで熱中症も回避できるし、本でも読んで他所の家庭の暮らしを覗いてみるのもいいものだ。学ぶことはある。


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