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読書を楽しむ「平川 祐弘 戦後の精神史」

002.JPG                                                      日米関係、安保、米軍基地…                            渡邊一夫、竹山道雄、E.H.ノーマンは                                 戦後政治をいかに論じたか                                          その背後に、どのような近代日本についての歴史認識があったのか                             日本の未来に備え、比較文化史の泰斗が検証する                 「BOOK」データベースより抜粋)                                            図書館の新刊コーナーに置いてあった本で「精神史」という言葉に惹かれ借りて読んだ。                         作者は戦後を代表する知識人として渡邊と竹山を取り上げ昭和20年代・30年代の                             言動で過去を振り返っている。                                            渡邊はフランス・ルネサンス文学の研究者で、竹山は昭和前期は高等学校のドイツ語                                       教師で、戦後は「ビルマの竪琴」の著者という肩書だった。                            渡邊は安保反対を唱え、竹山は安保賛成を主張した。                                        戦争中の日本人は外的権威を象徴する天皇に従順な羊の群れとして従ったが、                              占領下での日本人はマッカーサー元帥に従っていた。                                           戦後の知識人は戦争を阻止できなかった罪悪感に苛まれ、戦争に反対した投獄者は                                正当性を唱える立場に立った。                                    戦後の精神史を見直すためにカナダの宣教師の子として軽井沢で生まれ、                     戦後占領軍総司令部要員、駐日カナダ代表を務めたE.H.ノーマンが大きな                   役割を演じた。                                           ノーマンは日本の軍国主義者は悪いが、それに抵抗しなかった知識人も良くないと                      言っている。                                                                        日本が軍国主義となった背景には必ずしも天皇を必要とせず、天皇がいるから国民が                      軍国主義者になったわけでもない。                                                          それは日本の軍国主義が軍閥支配と軍国信仰によって生じたからである。                                       ノーマンは日本人民の善良さに信を置いていたので、軍国主義的愛国主義の                                    指導層を憎んだ。彼らを排除すれば日本が再生すると信じていた。                                 戦後の歴史研究書には、歴史を解釈するときに、大前提となる原理をたてて、                             そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方「上からの演繹」を仕組んで                                いるが間違った結論へと導くと竹山は書いている。                                                      日本にいる米軍がよそへ出動したら、その基地が報復を受け、日本が戦争に                                  巻き込まれるというが、米軍がいると戦争が遠のくが、いなければ近づくと                                      考える方が歴史の事実からは根拠がある。                                               日本人は立派な徳性(自己犠牲・義理人情)を具えているが、自覚の中では                                 基礎づけられていないため、他から論理を具えた主張をされると一たまりも                              ないので物を考えて自覚の中に根を下ろすことが必要だと言っている。                                            それは体が健康でも予防注射をしていないようなものだと例えている。                                  わかるような気がするが本来日本人とはそういうものだとも思う。                                         曖昧ということだ。曖昧で済むことが多々ある。


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